未履修問題の根底にあるもの
高校の未履修問題について、少し整理してみようと思う。
先回書いた日記では、どうも自分的に消化不良の部分があるので。
昨日のニュースで未履修問題を取り上げていた。
マスコミのカメラが該当高校生に向けられ、意見を求められる。
てっきり「今から勉強するのは、受験に差し支える」
という返答が帰ってくるものだと思っていた。
ところがその生徒は、
「学んだことは自分のためになるので、しっかり補習を受けようと思います」と、
答えたのだ。
軽い驚きと、自分のもやもやを埋めてくれる答えが、そこにあった。
今回の未履修問題において、ぼやけがちにされそうな大事な本質。
今問題になっているのは、受験まであとわずかな時期に来ていて、
時間がそもそも限られている中で、生徒に負担を強いるということだと思う。
確かにそれは、大きな問題だ。
そして、そこに生徒側に落ち度がないということもあり、
補習を受けない生徒が被害者だという論調がほとんどだと思う。
でも、補習を受けなければならない生徒たちが本当に「不幸」なのか?
という観点でものを見たときに、それが不幸だと断言できない自分がいる。
以前、ゆとり教育の更にもっと前、詰め込み教育だと言われていた頃、
高校では今では考えられないくらいの科目数を履修していた。
弾力性はあったものの、現代国語、古典、漢文、数学Ⅰ、数学ⅡA、
数学ⅡB、数学Ⅲ、生物Ⅰ・Ⅱ、化学Ⅰ・Ⅱ、物理Ⅰ・Ⅱ、地学Ⅰ・Ⅱ、
世界史、日本史、政治経済、倫理社会、地理、リーダー、グラマー、
コンポジション、etc...
文型理系クラスで、Ⅰのみ履修だったりするケースはあったが、
主要5科目だけでも、これだけの科目を全部こなしていたはずだ。
科目数だけではなく、その内容も今と比べると高レベルだ。
そして今大学で何が起きてるのかというと、
高校時代にほとんど、あるいは全く手をつけなかった科目が
大学の教養科目に半必修で置かれ、
大学に入学するところまではいいけれども、基礎知識がほとんどないため、
授業についていけない学生が多数存在しているという事実がある。
高校教育までは指導要領で縛られる。
でも、大学は今むしろ設置基準の大綱化を経て、自由度が増している。
一番の問題点はそこに連動性がほとんどないことだ。
大学の大衆化が叫ばれて久しい。
昔のエリート教育の場から、今は全入の時代に突入している。
当然、その役割も変わってこなければならない。
でも、いまだ象牙の塔的な考え方を持ってる大学人は多い。
(ただしこれが間違ってるという断定も、私にはできない)
この辺の意識や感覚のズレが、そのままカリキュラムに反映してる。
教育とはとても大切なものだと思う。
その国の根幹をなす重要なミッションであるはずだ。
かつての日本、またはかの国を見たときに、
教育によって蓄積されたものの影響力の大きさを知る。
要は、そのやり方しだいで、国の行く末やあり方はどうとでもなるのだ。
振り返って、未履修問題に話を戻したとき、
巷の報道等は目先の物理的時間の足りなさから発生している事象に
かなりのウェイトを置いているように見受けられる。
しかし、問題の本質の部分を置き忘れた議論は、
最終的には不毛なものに終わることは想像に難くない。
この国の教育のシステムやあり方、それをどうするのか。
そのことを根本的に見直さなければ、
今回の出来事は何の意味も持たなくなる。
補習を受けなければならない生徒たちが、本当に不幸なのか。
知識の習得ということを考えたときに、目先の利益だけではなく考えたい。
学ぶ権利を持ってるはずなのに、それを行使せず卒業した生徒の方が、
この先のことを考えると、もしかしたら不幸なのかもしれない。
かつて大学が本当にエリート教育の場だった頃、
そこで学んだものたちの知識量や能力は、
今の比ではない高いレベルにある。
明治の文豪、夏目漱石は、全ての学問を外国語で学んでいる。
地理も歴史も数学も例外なく全て。
だから、この時代に最高学府を卒業した過去の偉人の英語力は、
本当に半端なものではなく、
いわゆるネイティブをもうならせるものだったと聞く。
確かに文法重視ではあるが、
学問としてとらえた場合、文法解釈は必要不可欠だ。
そして、漱石は文豪として数々の優れた著作物を「日本語」で残した。
膨大な知識の中から厳選されたからこそ、成し得られた綴れ織りだと思う。
わが国が、何をよりどころに、どこにベースを置くのか。
今時代は、大きな転換点を迎えているように思う。
「学ぶ」ということの本質にたちかえって、それが何であるかということを
「考えること」を放棄してはならない。

